You never know・・・自分で体験しないと分からないこと

結構前に「自分で色々と決めて来た系の人がぶつかる壁」というエントリ-を書きましたが、最近同じことを思うことが何度かあり・・・今回は「You never know」といったタイトルで書いてみようかな、と。

英語で「You never know」というフレーズは「(あなたはそういうけれども)分からないよ、将来何かあってその考え方が変わるかもよ」といったニュアンスを持ちますが、最近「You never know」って感じることが色々なテーマについてありました。

例えば
・働くママのワークライフバランス
・MBA取得
・大企業勤務
・社会人になってから学校に戻ること
・海外で働くこと
・遠距離恋愛
といったトピックについて。

どのトピックにおいてもそれぞれある程度強い意見を持っている方に出会ったことがあります。例えば「自分は絶対〜だな」という言い方ををされる方々。決して私に向けて意見を言うのではなく、「自分『は』」を強調されているのが特徴的です。

数年前まで特にそういう方々に出会ってもあまり気にしていなかったのですが、最近は「どうしてそう決めつけるのかな?」「『You never know』じゃない?」って以前より思ってしまう自分がいます。そう発言している人が自らの体験でなくイメージ偏重で発言しているんじゃないかな、と感じる時は特に。

働くママの大変さを経験したことがないのに、「やっぱり母親は子どもと一緒にいたほうがいい」と主張する人。大企業で勤務したことがないのに、「やっぱりベンチャ-でのびのびやるのがいい」と断言する人。遠距離恋愛を体験したことがないのに「遠距離恋愛するくらいなら別れる」と検討の余地も入れない人。海外で働くことがどういうことか体験はしていないけれど「自分にはないな」と決めている人。MBAに関してだって人によって目的や得るものは違うだろうに「MBAで得られるものは●●だけ」と何故か自信満々で結論を出す人。

色々と調べた結果なら分かるのですが、どうしてそんな断言できるのだろう?時々不思議な気持ちになる時があります。

ちょっとジャンルは異なりますが、西の方からやってきた「株主資本主義」が世間でバッシングされるようになったとたんにそもそも株主という概念すらきちんと取り入れていなかった会社が「やっぱり違ったんだ」と従来のやり方に逆戻りするパターンもちょっと似たものを感じます。「やっぱり自分達が正しかったんだ!」的な。

自ら試し、体験して、それを元に自分のviewを定めるということと、自分ではリスクを取ってなくて、リスクを取った別の人の成り行きを遠くから見て、出て来た結論だけに賛同するのって、「私の意見は〜」部分が同じに聞こえても何かが決定的に違う気がするのです。


いくつかそれを感じる事例が今年に入ってからちょこちょこありましたが、ちょっと前の具体例を一つ。

昨年自分のFacebookに「家族は一緒がいい」というエントリ-を共有しました。すると(自分の友達に遠距離恋愛経験者や、現在進行形遠距離婚(留学、転勤)が多いからかもしれませんが)たくさんの反響をもらいました。

自分はこのエントリ-の筆者の方のように子どもがいる訳でもないですし、結婚している訳でもありません。ただ、ずっと遠距離恋愛関係にいた相手と同じ都市にようやく住む事ができたという経緯があったため少し共感するところがあったのです。で、自分のwallには遠距離婚経験の有無、パートナー相手の有無関係なく色々な人からコメントがあったわけですが・・

その中で自分が一番共感したコメントは「3年以上の別居生活を経験した私としては「まったくその通り!」と、このブログの方にお伝えしたい気分です。そしてその経験からフリーランスになってしまいました(^^;)。でも、家族の大切さを感じられたという意味で、あの別居生活は無駄ではなかったと思います。夫の赴任地に行くのも楽しかったし。」というものでした。

やっぱり一旦体験し、同じ結論に辿り着いた人の言葉は説得力がある。

そして、この方のコメントからも得られた気付きは「人生のタイミング/経験によって意見って変わるものだ」ということ。きっとこのコメントをくださった方は別居生活をしようと決めた時は違うviewを持っていたはず。で、結局今はあのブログを書いている方と同じ結論を持っているわけですが、やはり一旦自らの体験をもってその結論に辿り着いている。


似たようなことを友人の「If I Knew Then – Class of 1963」というエントリ-を読んだ時にも感じました。これは1963年にHBSを卒業した人達が今の現役学生に向けて伝えたといわれる「自分達が学んだ人生のレッスン」についてのエントリ-ですが、これを初めて読んだ時「最終的にこういう結論に辿り着いたとしても、それを私達個人がいつのタイミングでどう辿り着くかは人それぞれだろうな」と感じたのを覚えています。

MBAを取りにいくか取りに行かないか、大企業で勤務するかベンチャ-に行くか、日本人として日本に戻って働くか海外で働くか、大切な人と一旦物理的に離れるか一緒にいて他の選択肢(留学、転勤など)を取るのを諦めるか・・・よく聞かれる問いですが、他人が出した結論を聞いて自分で決めるよりは自分で体験するのが一番じゃないかなと感じます。


他人は他人、自分は自分。ある人は30歳でとあるレッスンに気付くかもしれないし、ある人は60歳で同じことに気付くかもしれない。別に早ければいいわけじゃないし、60歳の人と30歳の人が同じ意見についてそのタイミングで共感し合えばいい。その30歳の人は考えすらしたことない他の論点については60歳の人が20代の時に悟っていたということも十分ありえるわけだし。

よく『自分の前のドアを一つ開けるためには、後ろにあるドアを閉めなくてはいけない』と言われますが、何かを取る時は何かを捨てる。それって「リスク」。前のドアの先に何があるか分からないし、捨てたものをもう一度拾えるかも分からないし。でもそうやって「リスクテイク」して、自ら体験して、分かった「何か」っていうのは本当に強いと感じます。


その「リスクテイク」を阻む最大の敵の一つはおそらく「自分は●●だから」「自分は絶対〜」といった思い込み。

だから自分は「You never know」と伝えたい。

「分からないよ、将来その考え方が変わるかもよ」
「分からないよ、その人には違う側面があるかもよ」
「分からないよ、実はそういうことも向いているんじゃないの」

そう感じることの多い今日このごろです。
自分もたまに思い込みの罠に陥るので自戒をこめて。