最近思うこと。
「プロフェッショナルとして自分の分野で経験を積んでいれば、英語が多少不完全でも日本の外で仕事はできる」
自身の英語が「英語圏のネイティブ」に近くなくてはいけないとparanoidになりがちな人にとって重要なメッセージ。
これは実は自分自身に過去半年以上言い聞かせていたことです、なぜなら自分は細かい文法の修正が入るたびに「あぁ、申し訳ない、チームの足かせになってしまって」と思うタイプの人間だから。昨年の6月から「日本の外で」「自分よりもっと英語が上手な人達と」仕事をしていて、上司を含む周囲のメンバーに英語の些細な点の修正の手間をかけさせてしまうことに毎回小さな罪悪感と一種のハンデ感を感じ続けていました。周囲からの仕事のパフォーマンスに対する評価があったとしても、「英語の些細な事は気にしてない」と言われていても。
で・・・ようやく最近自分の英語力に対するコンプレックスを「焦ってもしょうがないことだし、他の方法でバリューが出すのを頑張ろう」という考え方で克服できるようになってきたところだったのですが。実は最近は別の事にちょっと悩んでいます。
なぜならば最近ちょっと以前と考え方が変わって来たから。
「プロフェッショナルとして自分の分野で経験を積んでいれば、英語が多少不完全でも日本の外で仕事はできる・・・できるけれど仲間と本当の意味でconnectするのはそれでは足りない」と。
確かに仕事「は」多分なんとかできる。契約社員やフリーランスのように、ある程度切り離されたタスクをこなすには多分十分でしょう。なぜならば周囲から重視されるのは「何ができるか」「どうできるか」「いつできるか」だから。英語というツールがなくてもパフォーマンスニーズを埋めることができる知識、経験、思考力、情報収集力があれば大丈夫。
でも、仲間になれるかどうかはそれは別の話。
他の仲間と自分がそれぞれのストーリーに皆耳を傾け、対話をしなくてはいけない。その人はどこから来て、何を大事にしていて、今一番重要なことは何なのか。何を求めているのか、自分はどうそれを提供できるのか。
そのためには相手の背景を察する力とか、その話している内容のテーマについてボールを返すことができるような基礎知識も必要だし、自分の持っている引き出しの中で相手の興味に合うようなものを瞬時に出す力とかが求められる。(と私は思っている)
で、最近辛いのは自分の「日本人でない人ばかりの」「大人数がいる環境で」「次から次に飛んでくる話題に」「英語で」対応する力の無さを痛感する時。
まず、相手が日本人である時に比べて相手の背景を察することが格段に難しくなる。コロンビアのその地域の国で育った女の子ってどういう人生を送ったのか?ブルガリアからの移民でアイビーリーグ大学に通うってどういうことなのか?パキスタンで高校中退した男性ってどういう気持ちに当時なっていたのか?国籍のみならず育ってきた経済的環境の違い、家庭環境の違い、文化的背景の違い。あまりにも自分が生まれ育った環境と違う人ばかりだから仮説すら置けなくなって「察する力」を育てるいは経験値、多様なバックグラウンドの人との出会いがあまりにも今までの人生で足りなさすぎる。
また、相手の話している内容のテーマについてボールを返すために必要なある程度の基礎知識の話。以前の自分にとって「比較的広いテーマを扱ってくれる良い雑誌」という位置づけだったエコノミスト誌から吸収した内容だと全然足りない。「で、どう思います?」とか「じゃ、xxは知っています?」とかがポンポンでてくる相手(自分の周りにはそういう人が多い)には「あ、そのこと聞いたことあります」程度だと全くついていけなくなってしまう。本当に幅広いテーマについて深い知見を持っていることが必要だと痛感することが多い。せめてリーダーシップ、国際開発(必然的に途上国全体/各国の話全て)、貧困問題、NPO団体、ソーシャルセクターといったテーマにもっと詳しくならないといけない。
とにかく皆インプット量が多い。The New York Times, The New Yorker, SSIR, Next Billionsらへんの記事を引用している人がいて、「あ、それらを読めばいいのかな」と思えば、どこで情報を得ているのか分からないですが世界でThought Leaderと言われている人達の新著のレビューなどもしっかりと押さえていたり、芸術の話や政治の話ももちろんできて、スポーツも追っている。全方位?的に常に世界で何が起きているか、何が話されているかを押さえていることにいつも圧倒される。いつインプットを得ているのだろうか・・・
で、最後の「相手に合わせて自分の引き出しの中から瞬時に出す力」は英語力の足りなさを一番痛感するところ。例えば周囲が「リーダーシップ」について話をしていれば、自分はグロービスの時の話とか、東北で復興支援に関わっている素晴らしいリーダー達の話とか、色々と話したいネタはある。でも、1vs1の時と違って、相手の興味をしっかり惹き付けるためには効果的なストーリーテラーにならなくてはいけない。無駄なく、ポイントをついて、相手の記憶に残るような伝え方。実際社内のメンバーの前で発言することもあるけれど、毎回「もっと上手く伝えられたはず」という気持ちの繰り返し。
今日だってインターネットとhumanity(人間性)、未来の子ども達との関わり合いという自分が比較的話しやすいテーマが話題になっていたにも関わらず、ガンガンと発言する幅広いプロフェッショナルの20-60代の女性(50人くらい)の中で手を挙げて発言することができなくてやっぱりちょっと悔しかった。もしかしたら「活発な議論の場で(実際かなりヒートアップしていた)この場で一番おそらく英語が下手な自分がへんてこな発言をしてしまったらどうしよう」というくだらない自分の気持ちを克服する必要があったのかもしれないけれど。
このブログが冗長になるのからも分かるように自分は日本語ですらその力はまだまだ。ましてや英語でそれをやるのは本当に難しい。手をあげよう、発言しようと思った時から頭の中ではどういう構造でどういうことを簡潔に伝えようということでいっぱいになって動悸も早まり、体温も少し上がって来る。
英語力のせいにしてはいけなくて、それ以外にも(インプットとか)鍛錬すべきところはたくさんある。でも、言葉もやっぱり大切で。1対1ではない場所で伝えたいことを相手に届くような形で届けたい。日本語と同じくらい英語で語れるようになりたいな。
そんなことを考える今日このごろです。
以前書いた英語力関係のエントリ-:2つの英語の流暢さ(fluency)
(これとはちょっと違う課題ですね、今回のエントリ-は)
「プロフェッショナルとして自分の分野で経験を積んでいれば、英語が多少不完全でも日本の外で仕事はできる」
自身の英語が「英語圏のネイティブ」に近くなくてはいけないとparanoidになりがちな人にとって重要なメッセージ。
これは実は自分自身に過去半年以上言い聞かせていたことです、なぜなら自分は細かい文法の修正が入るたびに「あぁ、申し訳ない、チームの足かせになってしまって」と思うタイプの人間だから。昨年の6月から「日本の外で」「自分よりもっと英語が上手な人達と」仕事をしていて、上司を含む周囲のメンバーに英語の些細な点の修正の手間をかけさせてしまうことに毎回小さな罪悪感と一種のハンデ感を感じ続けていました。周囲からの仕事のパフォーマンスに対する評価があったとしても、「英語の些細な事は気にしてない」と言われていても。
で・・・ようやく最近自分の英語力に対するコンプレックスを「焦ってもしょうがないことだし、他の方法でバリューが出すのを頑張ろう」という考え方で克服できるようになってきたところだったのですが。実は最近は別の事にちょっと悩んでいます。
なぜならば最近ちょっと以前と考え方が変わって来たから。
「プロフェッショナルとして自分の分野で経験を積んでいれば、英語が多少不完全でも日本の外で仕事はできる・・・できるけれど仲間と本当の意味でconnectするのはそれでは足りない」と。
確かに仕事「は」多分なんとかできる。契約社員やフリーランスのように、ある程度切り離されたタスクをこなすには多分十分でしょう。なぜならば周囲から重視されるのは「何ができるか」「どうできるか」「いつできるか」だから。英語というツールがなくてもパフォーマンスニーズを埋めることができる知識、経験、思考力、情報収集力があれば大丈夫。
でも、仲間になれるかどうかはそれは別の話。
他の仲間と自分がそれぞれのストーリーに皆耳を傾け、対話をしなくてはいけない。その人はどこから来て、何を大事にしていて、今一番重要なことは何なのか。何を求めているのか、自分はどうそれを提供できるのか。
そのためには相手の背景を察する力とか、その話している内容のテーマについてボールを返すことができるような基礎知識も必要だし、自分の持っている引き出しの中で相手の興味に合うようなものを瞬時に出す力とかが求められる。(と私は思っている)
で、最近辛いのは自分の「日本人でない人ばかりの」「大人数がいる環境で」「次から次に飛んでくる話題に」「英語で」対応する力の無さを痛感する時。
まず、相手が日本人である時に比べて相手の背景を察することが格段に難しくなる。コロンビアのその地域の国で育った女の子ってどういう人生を送ったのか?ブルガリアからの移民でアイビーリーグ大学に通うってどういうことなのか?パキスタンで高校中退した男性ってどういう気持ちに当時なっていたのか?国籍のみならず育ってきた経済的環境の違い、家庭環境の違い、文化的背景の違い。あまりにも自分が生まれ育った環境と違う人ばかりだから仮説すら置けなくなって「察する力」を育てるいは経験値、多様なバックグラウンドの人との出会いがあまりにも今までの人生で足りなさすぎる。
また、相手の話している内容のテーマについてボールを返すために必要なある程度の基礎知識の話。以前の自分にとって「比較的広いテーマを扱ってくれる良い雑誌」という位置づけだったエコノミスト誌から吸収した内容だと全然足りない。「で、どう思います?」とか「じゃ、xxは知っています?」とかがポンポンでてくる相手(自分の周りにはそういう人が多い)には「あ、そのこと聞いたことあります」程度だと全くついていけなくなってしまう。本当に幅広いテーマについて深い知見を持っていることが必要だと痛感することが多い。せめてリーダーシップ、国際開発(必然的に途上国全体/各国の話全て)、貧困問題、NPO団体、ソーシャルセクターといったテーマにもっと詳しくならないといけない。
とにかく皆インプット量が多い。The New York Times, The New Yorker, SSIR, Next Billionsらへんの記事を引用している人がいて、「あ、それらを読めばいいのかな」と思えば、どこで情報を得ているのか分からないですが世界でThought Leaderと言われている人達の新著のレビューなどもしっかりと押さえていたり、芸術の話や政治の話ももちろんできて、スポーツも追っている。全方位?的に常に世界で何が起きているか、何が話されているかを押さえていることにいつも圧倒される。いつインプットを得ているのだろうか・・・
で、最後の「相手に合わせて自分の引き出しの中から瞬時に出す力」は英語力の足りなさを一番痛感するところ。例えば周囲が「リーダーシップ」について話をしていれば、自分はグロービスの時の話とか、東北で復興支援に関わっている素晴らしいリーダー達の話とか、色々と話したいネタはある。でも、1vs1の時と違って、相手の興味をしっかり惹き付けるためには効果的なストーリーテラーにならなくてはいけない。無駄なく、ポイントをついて、相手の記憶に残るような伝え方。実際社内のメンバーの前で発言することもあるけれど、毎回「もっと上手く伝えられたはず」という気持ちの繰り返し。
今日だってインターネットとhumanity(人間性)、未来の子ども達との関わり合いという自分が比較的話しやすいテーマが話題になっていたにも関わらず、ガンガンと発言する幅広いプロフェッショナルの20-60代の女性(50人くらい)の中で手を挙げて発言することができなくてやっぱりちょっと悔しかった。もしかしたら「活発な議論の場で(実際かなりヒートアップしていた)この場で一番おそらく英語が下手な自分がへんてこな発言をしてしまったらどうしよう」というくだらない自分の気持ちを克服する必要があったのかもしれないけれど。
このブログが冗長になるのからも分かるように自分は日本語ですらその力はまだまだ。ましてや英語でそれをやるのは本当に難しい。手をあげよう、発言しようと思った時から頭の中ではどういう構造でどういうことを簡潔に伝えようということでいっぱいになって動悸も早まり、体温も少し上がって来る。
英語力のせいにしてはいけなくて、それ以外にも(インプットとか)鍛錬すべきところはたくさんある。でも、言葉もやっぱり大切で。1対1ではない場所で伝えたいことを相手に届くような形で届けたい。日本語と同じくらい英語で語れるようになりたいな。
そんなことを考える今日このごろです。
以前書いた英語力関係のエントリ-:2つの英語の流暢さ(fluency)
(これとはちょっと違う課題ですね、今回のエントリ-は)