「止まること」と「手放すこと」

ニューヨークはせわしない。でもせわしない環境にいる人であればあるほど「止まること」が大切だなぁ、と最近思う。そう思いながら最近周囲の友達と話してて思うのは、この街の友人は、以下のどれかをすることでpeace in mindを維持している人が多いな、ということ。具体的には:瞑想、ヨガ、または教会に行く事。(限りなく小さい調査サンプルではあるけれど)ジョギングを無心になってやることももしかしたら同じ効果があるのかもしれない。

自分が「止まること」が大事だな、と思った経緯

自分は元々バタバタと忙しくすることの多い/好きな人間で、気がつけば深呼吸する暇もないまま走り抜けていることもよくある状態。でも身体(というか肌・免疫機能全般)がそこまで丈夫な方ではないので、よく体調悪化(肌荒れ、免疫低下)という形で自分の活動にブレーキがかかることが多かった(今もまだ多い?)。元々アトピー体質だから結構自分でも周囲にも分かる形で身体が赤信号を出していることが分かりやすい人間なのです。

でも、さすがに社会人生活を7−8年続けてみて、なんとなく自分がhappyに前を向いて歩き続ける(早歩き)ために何が必要なのかが分かって来たと思う。それが「止まること」。より具体的に書くと「意識的に止まる時間や仕組みを取り入れること」

それが分からなかった若い頃は良くどこかにいらっしゃる神様が「ドンっ」と「体調不良の爆弾」を私に落とし、度々「止まることを余儀なくされていた」。

最近になってようやく自分で「あ、走り過ぎたかも」と思った時は「止まる」ことを意識できるようになったと思う、以前よりは。私の友人は走っている状態の私を知っている人のほうが多いけれど、付き合いが長い人達や、私のことを深く知る機会があった人達は私は実は「止まっている」時間も結構ある、ということを知っているはずだと思う。

で、冒頭に書いた「瞑想」「ヨガ」「教会」ーこれは私の周りがそれぞれ取り入れている、それぞれの人なりの「止まる」方法。自分はブログ執筆も「止まる」一つの活動であるわけだけれども、こういうのを自分の生活に取り入れるのって実はバランスを取るのにとても有効だな、と思うわけなのです。

週一回の「教会」visit in New York

最近はよくクリスチャンの彼と一緒に毎週日曜に1時間教会に行っています。行っている教会はuptown westにあるRedeemer Presbyterian Churchというところで、自分が昔イメージしていたカトリック教会の「教会」というものからはかけ離れた外見のモダンな感じの講堂。日曜は毎週最低二回、異なる時間帯でそれぞれ1時間ちょっとの会が開かれていて、クリスチャンじゃない人も比較的多く来ていて、とてもオープンな会。目玉となるPreacher(伝道師)役の方(普通のビジネスマンに見える人も多い)が大体毎回20分ほどお話をしてくれるのだけれどもその内容も普通に東京で聞きに行くセミナーみたいな感じ。話している内容も聖書のエピソードに基づいている話から人生のレッスン的な話になり、比較的一般的なものでクリスチャンじゃない人でも理解がしやすいメッセージになっている。

最初は「クリスチャンじゃないし・・・」と緊張していた私も最近は都会の喧騒から離れ他のことを考えない時間に浸ることができ、当初自分が想定していなかった、心のリセットタイムを満喫しています。しかも綺麗な音楽(賛美歌なのだろうか)を途中にボランティアのバンドや歌手の方がperformしているのを聞いたり、最後にみんなで合唱したりと幼稚園時代のことを思い出す感覚。

歌や演奏の上手な人達(おそらく彼らはみな普段は普通のビジネスパーソンでボランティアで平日練習しているのだと思われる)の奏でる音色を聞くのはいつも楽しいし、心が洗われるようなメロディーを周囲を気にせず講堂にいる皆で一緒に声を出して歌うというその行為も結構癒しの効果があるような気も。

先週の「教会」で聞いたお話

で、先週その教会で聞いた話がなんか「止まること」にも少し関わるような気がしたのでここに書いておきます。前もって置くと自分は「正式な」?クリスチャンでないので正直聞いた話を正確に理解できたかは自信がありません。勝手な解釈が入っているかもしれませんということを念のため。

印象に残ったこと:その①「worry(心配)」するのは自分が全てをコントロールできる、という奢りからくるものであるー自分の予定/期待していた通りに物事がうまくいかない、またはいかなそうだという感覚が「worry(心配)」につながる。でも、それは裏を返せば自分の予定/期待どおりに物事がいくはずだ、という思い込みが背景にある。It suggests you know more than the God、と今回のスピーカーの方は言う。

私はこの"the God"というフレーズを聞く度にまだやはり少し違和感を抱いてしまうのですが、もともと仏教(仏様)やら万の神様といった、「かみさま」という考え方に対してはそこまで違和感をもっていない人間なので、「確かにそうかも」と感じることのできた内容。「止まること」を行動として日々の生活に取り入れたとしても、この、マインド面での色々とlet go(手放す)ことって大事だと確かに思う。(Control your destiny of someone else willというウェルチの考え方も自分は好きだけれどもちょっと階層の違う話という認識)(だから子どもの頃から苦しんで、嫌でしょうがなかったアトピーも自分であがいてもしょうがない部分があるさ、と割り切ったのもここ2年くらいの話)

印象に残ったこと:その②「他人の悪を自分がさばこう」とする行為は自分がキリスト(the God)と同じだけのことを知っているという奢りである。というお話。具体的に聖書にあるエピソードを題材にこの話をしていたのだけれども、ポイントとしては「どれだけ世界で色々と理不尽だと思うようなことが起きていたとしても、または、どれだけ自分からみて他人が『間違っている』という行為をとっていたとしても、それらは中長期的に見て各々の人生にとって(悪を働いているように見える相手も、その影響を自分が直接受けたとしても)意味(=教え)があることである。したがって、短期的な他人の行動や言動に人があーだこーだ言うべからずである」といった話でした。同様に「『どうして自分だけが』というような体験をしている瞬間があったとしても、それはあなたにとって意味があるはずなのだ」という話もありました。

特に他人については「目には目を、歯には歯を」的な心構えや相手を非難するという行動を取る前に「あなたはいつから他人を判断する立場になられたのですか?」という問いを自分に向けるべきだ、と。それを聞いた時ふと思ったのは日本では他人の意見に対して「それは間違っている」と思うとそれを全力で修正にかかろうとする力がなんとなく強いよなぁ、ということ。「多様な考え方や行動を認める」という話と無関係ではないと思うのですが、以前ブログに書いたようなhappinessに関係のある話でないかな、と。周囲に自分をjudgeする可能性のある人が多いのは無意識のうちに疲れてしまうし。自分のpeace in mindのためにも「他人の間違いを修正したくなる衝動」はlet goしたほうが自分のためではないかしら、と。(関連エントリ-:NYCに来た日本人が幸せを感じる理由



上記の2点は最終的に「人生において一見理不尽かもしれない出来事があなたや周囲に起きている/起きるかもしれないけれど、全てのことは意味があるのですよ」という話につながっていて、「だから表面的な事だけにとらわれて心を乱すことなく、他者を赦し、社会に対して自分はどんなときでもgoodをしなさい」というメッセージでまとめられます。

加えて、「自分が全てをコントロールできる、全てを知っている、という立場(=the Godの立場)になろうとすればするほどなれないのです。コントロールしたいという欲求やコントロールしているもの、また手にしているパワーを手放しなさい」という二つ目のメッセージもありました。

これらの心構えってここ数年自分が「止まること」の仕組みと同じくらい重要なことだな、と思ったことで、「止まること」の仕組みを日々の生活に取り入れ、同時に「手放すこと」を意識すること。なんとなくそこにhappinessのきっかけがあるような気がする今日このごろです。

せわしない街でせわしなくなりがちな生活を送っていますが、peace in mindを失わないようにしたいものです。






・・・・・・・・さて、仕事仕事。


鳥もたまには止まって休む

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