「The New Public」を観て思った「教育」の成功の基準

実は今週日本に出張に来ています。その前は1週間束の間Home New York、その前は2週間のロンドン出張でした。ブログ、、更新できていません。その1週間いた間のNYであった出来事を書いてみました。テーマはアメリカでの教育現場、格差、幼少期教育、教育学を社会人になってから学びにいくこと。

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アメリカのK-12教育の現場を扱ったドキュメンタリー映画「THE NEW PUBLIC」をみにいってきました。

一緒に見に行った仲間は最近つくった「『教育/学び』の仲間 in NY」の仲間達。知り合いが知り合いを呼んで広がりつつある、このニッチなグループも今はメンバーが10人になりました。そのうちの5人で集まっての映画鑑賞会。皆それぞれの仕事や授業を終えた状態で映画館で集合。日本人女子が5人も集まることなんて滅多にない機会でにわか女子会ムードを楽しみました。

アメリカのK-12教育の現場

自分にとってアメリカの教育を取り扱った映画を見るのはこれが三作目です。
一つ目は以前このブログにも書いた「Won't Back Down」(過去のエントリ-  アメリカのPublic Schoolの現状

二つ目は有名な作品「Waiting for "Superman"」(一つ目を見て自分の無知さに衝撃を受けていたらクラスメート達に勧められたものです、Netflixで見れました)このSupermanは別の有名な作品「American Teacher」と合わせて見てバランスを取るといいよ、とのアドバイスももらいましたが、まだそれは見てないのですが近いうちにnetflixで見てみようと思っています。

教育をイシューにした全ての議論においてそうなのと同じように、これら3つの映画にはそれぞれ賞賛する側と批判する側が存在します (wikipediaの記事をみたりgoogle検索するとすぐ分かります)それでも、こういうテーマを掘り起こし、議論のきっかけを投じる(又は私みたいに無知だった人に向けて考えるきっかけをくれる)ことはとても素晴らしいことだと感じます。

で、その3つの映画。共通していることは「いつ、どこで生まれたかによって一人一人の子供がうけることができる教育に格差が存在するのはおかしい」という考え方が前提にあるということです。そして実際に「おかしい」と思っている人たちがその課題にそれぞれの形で全力で取り組んでいく勇気とドラマを描いたものになっています。(American Teacherはまだ見ていないので分かりません)

アメリカで何世代にも渡って受け継がれてしまっている格差の現実。アメリカンドリームというビジョンの裏では日本国内の格差とは比べものにならないほど複雑で根深い問題が存在しています。そういった「一見解決不可能に見える社会課題」に背を向けず、解決法を模索するentrepreneurs達の取り組みを描いたこれらの映画たち。

世界の貧困問題という複雑で厄介な課題に取り組んでいるAcumenのマニフェストHave the humility to see the world as it is and have the audacity to see the world as it could beを改めて意識させられる映画です。

家庭環境が子供の発達に与える影響

ちょっと話がそれるのですが、格差と教育の関係を伝えるために一度書きたかったことを書いてみます。

近年OECDがレポートに幼少期教育のセクションを設けたことや(過去エントリ-「
OECDのEducation at a glanceと日本 」、オバマ大統領が前代未聞の予算枠を幼少期教育に振り分ける意向を示したこと(大学院卒業前に話題になったことです、こんな記事とかあります)で、何かと幼少期教育が注目されることが増えてきています。

個人的にはabcや1.2.3.の幼少期からの詰め込みよりもその時期に子供たちに伝えるべき、体験させるべきことがあると考えている人間ですが(家庭に流れる暖かい空気の体験も一つ。本山さんのこちらのブログ「人生の9割は親の夫婦仲で決まる?」も面白い考察です。夫婦に限らず、シングルペアレントだったとしても子どもをとりまく大人がつくりだす空気という意味でありうる話かと)早い段階から周囲の大人による「適切な」学びの環境づくりはとても大切だとは思っています。(私が尊敬して止まないセサミストリートに関する過去エントリ-はこちら

環境大事。ただ、それはdispositionalな要素(生まれ備わった気質、体質)が子供へ与える影響を過小評価している訳ではありません。この世界の話、大学院でサラッと学びました。たとえば、母親が精神疾患を患っていたり、なんらかの遺伝性の因子の保有者であったり、substance abuseの傾向があったり、家庭環境が過酷だったり(DVや貧困や大気汚染を含む)した場合、早ければ卵子着床の時期から「母体から伝わる情緒的・身体的ストレス」が子供に影響を及ぼす可能性が指摘されています。

因果関係は非常に複雑で、単純にAだからBという話ではないのですが、生まれてくる子供への影響の一例としては集中力の欠如だったり、短気さだったり、他人の気持ちを推し量る力の弱さだったり、と認知的・精神的・感情的に様々な影響が指摘され、研究されてます。なのでどういう親の元でどういうDNAを持って生まれてくるかはやはり無視できないのです。

貧困層というわれる地域や環境で物理的にも精神的にも色々とストレス因子に晒され続けている母体から産まれた場合は尚更です。これに加えて当然、その子供が産まれた後にも環境リスク(暴力、ネグレクト、貧困、ドラッグ、大気汚染、栄養不足、、、)は存在し、子ども達のその後の発達過程に影響を及ぼします。

そういう子供たちを含めた子供が社会にはばたく前にくぐっていくのがオバマ大統領が力をいれようとしてる「幼少期教育(earlychildhood education)」であり、その後に続くk-12教育です。(もちろんリスクの相対的に少ない子も同じ道を歩みます)

私はOECDなどが言い始めている「やるなら早いほうが、幼少期だ」というのはこういう社会の現状を踏まえ、k-12以降に埋めていくのが更に困難になるであろう教育格差是正を早めから意識しようというメッセージだと捉えています。幼少期から良質の教育機会を提供することのレバレッジ効果は発達リスクに囲まれながら過ごす環境下に生まれた子供たちほど大きい、と。

余談ですが:もともと平和で安全で豊かな教育機会が存在するコミュニティ、子供を思いやる経済的精神的なゆとりがある親を持つ子達は世界ではまだまだmajorityではないと感じます。だから港区に住んでいる友人に「早くから知育を意識した方がいいんでしょ」と聞かれても「私が知ってる研究結果はリスクと隣り合わせな環境にいる子達に関するものだけど」と答えてます。

「The New Public」

で、話が少し逸れましたが、今回のドキュメンタリーのテーマはブルックリンに住んでいる高校生です。周りにある選択肢を何らかの理由で選ばず、選べず、新しく開設されたこの公立高校に期待と不安を持って入学してきた学生とその保護者達。

幼少期から格差是正しないと、とまさに言われるような地域、家庭環境に生まれ、高校生を迎えた彼ら。他の二作と同じでこの映画からとアメリカという社会に根深く存在している貧困スパイラルという現実がひしひしと伝わってきます。

学校でできることなんて限られるんじゃないだろうか、この年までこんな風に育てられてしまって今から変わることなんてできないんじゃないだろうか。そんな考えが自分の頭に浮かびます。

実際、ドキュメンタリーでは勢い勇んでvisionを掲げて高校を作った元DJの校長や担任が現実の壁にぶつかり苦しんでいきます。

ようやく第一期生たちが卒業して行くところで映画は終わります。が、ドキュメンタリーを見終わった後も、果たしてあれが成功だったのかもよく分からないもやっとした気分が残ります。果たして第一期生たちにとってこの学校に行くという選択肢は良いものだったのだろうか。

悶々。

そのもやっとが少しスッキリしたのは上映後の座談会でした。私たちは事前に調べてなかったので知らなかったのですが、当日は上映後に監督、登場人物の先生一人、登場人物の保護者一人、登場人物の学生一人を混ぜた座談会が企画されていました。

このインタラクティブなやりとり、とても良かったです。特に印象的だったのは当時悩み苦しんでいた先生のコメント。ドキュメンタリーでも描写されていた話ですが、別のもっと環境のよい学校から移ってきたその先生は目の前の高校生達の有り様に一時期諦めそうになってしまいます。そんな先生の今当時を振り返っての本音。重みがありました。

そんな質疑応答も終盤にさしかかった頃。最前列にいた一人の観客が手を上げます。

彼はその学校の第一期卒業生で壇上にいる先生の教え子だったと自己紹介。質問はその先生に対したもので「当時どういうことが辛かったですか?(私たちも先生の辛さは薄々気づいていましたが)先生な私たちに対して罪悪感を抱きながら接していませんでしたか?」というものでした。

苦笑しながら先生は「辛かったよ」と答えます。「今はもっと雰囲気が学校全体でよくなっているし、今君が僕のクラスにいたらもっと良い体験になっていたよ」と淡々と話していました。

その後いくつか対話があった後、司会者が別の質問者に移ろうとしました。
その時。それをこの卒業生が遮ります。

「もう一つだけ言わせてください」

もう一つ質問があるのかな?と注目する我々。そんな空気の中でこの卒業生が発した言葉たち。自分勝手な意訳ですがこんな内容でした。

「先生が当時のご自身のあり方に罪悪感を抱いていたとしても、後悔されていたとしても、当時のクラスが今よりいまいちだったとしても、僕は先生に心から感謝しています。あの時期に学んだこと、それのおかげで今の自分がいます。だから本当に感謝しているんです。今日はそれが先生にいいたくてここに来ました。本当にありがとうございました」

「教育」の提供に関わる人間として

今でもあの瞬間を思い出すと胸がいっぱいになる自分がいます。自分は先生をしたことがあるわけでもない人間なのに。でもきっと自分が人生で振り返った時に印象に残った「教育」を受け、その「教育」の価値を信じる人間だったら少なからず自分に引き寄せることができる話じゃないだろうか、そう感じます。

そして結局「教育」の成功の基準ってこういうことなのじゃないだろうかとも思います。一気に導入して人生バラ色に変わる仕組みなんて存在しないように、学習者の人生がいきなり変わるようなカリスマ教師も魔法のカリキュラムも存在しない。

それでもなんらかのinterventionに触れた人の人生が触れる前より少し豊かなものに、幸せなものになったね、と言えることが大事であるのではないのかな、と。極端な話ただそれだけ。で、それは楽なことじゃないけれど決して無理ではない。

そのinterventionの提供という「相手ありきの行為」をどれだけ愚直に続けられるか。どれだけ相手のことを思って真摯な気持ちで取り組んでるか。

「相手」が貧困という課題に絡み合っている場合、課題の難易度が最上級になってしまうけれども、教育に関する課題なんてどの国にも、全てのSES(social economic status)に属する人でも、どの世代にとっても様々な難易度レベルで存在しているもので。

このinterventionは色々なカタチがあるし、共存だって可能。だって皆同じ山のてっぺんを目指して一歩を踏み出しているのだから。

きっとこういう考えを共有してる人が多いから「教育」に関わってる人達の間には、何かしらの親近感や連帯感や信頼が自然に生まれる傾向があるのではないかな、とも最近感じます。

皆フォーカスしてる分野や取り組み方はバラバラだけれども、皆がそれぞれの場所で頑張れば自分の関わるinterventionの届かないところにいる人も心豊かになれると信じてるから。

・・・・・・キラキラすぎる世界で自分で言って自分で眩しい・・・。

教育学大学院に進学した影響ってこういうマインド面で大きいなと感じます。教育系の映画の存在を知ったり、幼少期教育に関する研究内容に触れたり、アメリカの格差社会のしわ寄せの溜まり場のような教育現場の現状を知る、そういうナレッジ面のインプットもありましたが、卒業して5ヶ月たった今感じる一番のtakeawayはこういうマインド面の変容なんだな、と思います。

そんな感じでこの嫌がらせ級の長さとなったこのエントリーを最後まで見てくださった稀有な皆様には「社会人になってからの、異分野からの教育学留学」オススメしたいな、と思っています :-)





補足:アメリカではないですがケニアの女の子の教育を対象にしたGraceland Girlsという短編ドキュメンタリーも結構オススメです。(過去エントリ-:「Tokyo New Cinemaとの出会いの後半に書いています」