Being interestingではなくbeing interestedでいるために

ジャクリーンが良く言っている「Focus on being interested, not on being interesting」というメッセージ。自分があるテーマについてBeing interestedになるために必要な要素はなんだろう。そんなことをふと思ったのでブログにまとめてみることに。

慣れているほうが心地いい

年を重ね、自分の活動範囲や得意分野の輪郭が少しづつクッキリしてきます。様々な情報に触れる際、自分の興味や身の回りのことへの影響を意識しながら取捨選択していくことが増えて行きます。

誰でも自分が知ってるテーマについての話のほうが情報を吸収しやすいし、何かを学んだ気にもなり得る。自分の価値観を正当化してくれるような情報だったら尚更触れることが心地よい。何よりそういう情報に囲まれて過ごして行けば自分が何も知らないといったcluelessな状態を体験しなくて済む。

でもそういうパターンを繰り返していると、自分の「ホーム」においてbeing interestedでいることは出来るけれど・・という状況になりかねない。

自分の場合The Economistのどういう記事に反射的に惹かれるかで自分の情報アンテナの癖が見えやすい。金融業界にいた時、真っ先に読んでいたのはBusinessセクション(その中にあったSchumpeter)、Finance and economicsセクション、たまに、自分の見ているセクターに関係がありそうなInternational下の記事やScience and technologyもの。BRICsテーマに関係がありそうなのはサラッと眺めつつも気にしていたのはコモデティ価格に対する影響だったり、そこに進出している事業会社/業界への影響だったり。それぞれの国の文化、政治や歴史に興味があったわけでは特になかった。

環境が変わると意識する世界が変わる

時は流れ、2012年夏、久しぶりに日本国外に出ることにして、教育学部に進学した。この時はテクノロジーの社会的影響に関わることを学んでいたということもあり、気にしていたのはScience and technologyセクション、またThe Economistのカテゴリーに関係なく教育のテーマがとりあげられている記事には目を通すようになった。心理学や社会学といった教育と切り離せないテーマが取り上げられることのあったArt and booksも意識したり、日本から離れているのでJapan関連の記事も最低限タイトルに目を通すようにした。

この頃にはFinance and economicsやBusinessのセクションはほとんど見なくなっていた。これらの記事を読んだ後のSo whatが自分の目の前にあるものや周囲の人の興味分野とあまりにも遠くなってしまったので情報吸収することに興味がなくなったというのが大きい。全体的にThe Economistとの接点はどんどん下がり、より専門分野のソースからの情報に浸るようになった(関連エントリ-:教育系の情報はどこから得てる?(更新中)

自分が日々向き合っていること、頭を働かせていることからあまりにも「アウェイ」なテーマの事象に対してはいかにベース知識があったとしてもinterestedでい続けることは難しい。

人は環境によって形成される。本当にそう。

そして世界の貧困問題に向き合うNPOで働くようになった今、Acumenの投資先であるアジア(特に南アジア)、アフリカ大陸、中南米の話に反応する日々。国際開発というテーマ、社会起業家というテーマに関しても知らないことばかりだから知らなきゃ(have to)と知りたい(want to)の交差点。

仕事をしていく上で教育学部時代にどっぷりつかった教育系の情報はベースとして活かされている、でも今はそのインプットをどうアウトプットにつなげるか。どうそのアウトプットを本来の目的達成に近づけるか。だから教育に関するインプットを増やす時期ではおそらくないのだと思う。むしろそのために自分の届けているものを消費してくれるユーザーを取り巻く状況がどんなものなのかという点に興味があるフェーズにいる。

自分にとってのWant toとHave toの交差点がどこにあるかは自分のいる環境によって大きく左右され、それが自分がinterestedでいる対象が何かを形作る。

「自分の目の前の環境」以上のもの

でも、それだけじゃないんじゃないかな、と最近思うこともある。別に欲しいと思っていないし、知らなきゃと思っているわけでもないんだけれど自分がふと「being interested」になる瞬間。

背景にあるのは自分が出会ってきた人達の存在。彼/彼女達が自分の頭の中に居るから興味がわく。そういう体験。
  • 小学校の頃から国際協力の分野に興味を持っていたという親友(リクナビ進学の「世界を変えるU33」に記事があります)。彼女からLGBTに関する人権問題の話を聞いていなかったら今週のThe Economistの世銀/ウガンダ制裁の記事に自分が意識を向けることはなかったと思う。彼女という人物に出会い、彼女の生き方や考え方に影響を受け続けているから「この間言ってた話はこのことだったんだ」「この記事を見てどう思うんだろう?」 と自然と興味がわいてくる。
  • たまたま同じ週のナイジェリアのGDP数値修正の記事。これに対して興味を抱くかどうかには今年のAcumenのグローバルフェローの鈴加さん(東京財団のホームページに記事があります)の赴任先がナイジェリアであることが関わってくる。記事自体は結構サラッとしていて軽いものだけれど、彼女が現地にいるということを意識するだけで、気になることが色々でてくる。こういった現地で彼女はどう過ごしているのだろう、何を見て何を考えているのだろう、そもそもこんな話現地では話題にもなっていないのではないかな、とか。
  • 同様に渡邊さやかさんに出会ってからカンボジアという国について興味がわくようになった。ハバタクのうっしーから伝わってくる秋田の話Re:publicのゆきちゃんから伝わってくる福岡市の話。文科省の友達と出会ったことでMEXTの発表内容をより意識するようになったり、環境教育に取り組む友人や環境系ベンチャ-に転職した大切な友人のことを想像するから環境問題に関する情報にもちょっとだけ妄想力が働くようになる。
貧困問題(絶対的、相対的)、ダイバーシティ人権問題、宗教問題、移民問題を含む人口動態の話、資源/エネルギー・自然環境問題、教育に関する問題、医療・社会福祉に関する問題、被災地支援(disaster relief)に関する課題・・・・・ソーシャルイシューと言われるものはたくさんある。

これらの「一度は触れたことがあるテーマ」に自分がinterestedになるためには、自分を取り巻く環境を通じてという道が確かに一番早い。(最近友人がシェアしていて読んだ「移動は投資」というブログにあった「複数の業界、複数の仕事、複数のコミュニティ、複数のプロジェクト、複数の趣味」ということに通じる気もする)

でも、人間一人一人に与えられている時間は限られているし、行動範囲だって限界がある。多様な場所でそれぞれ活躍する人達との出会い/つながりは、そういった限界を認知的に超える可能性を自分にもたらしてくれるのではないか。そんなことを感じます。

彼らは自分の見えているものがいかに世界における氷山の一角かということを気付かせてくれる。それと同時に自分が直接見聞きできていないものに対してbeing interestedになるためのきっかけをくれている。有り難いことだな、と思います。

日本の桜には到底かなわないけれどマンハッタンにも春の兆しが。

ちなみに有名なブログBrainpickingsがまとめてくれていたジャクリーンからのメッセージ。①Focus on being interested, not on being interesting、②Don’t worry about what other people think of you、③Avoid cynicism、④Build on what came before.

2018年2月追記:こういった文脈でリディラバSoarがやっている取り組みはとても大切な事だな、と応援しています

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