やりがい至上主義の罠

「Insight」という、self awareness(✴︎)に関する研究内容をまとめたものが面白い。
self awarenessの英語での定義は色々あり人によって解釈は色々なので日本語訳もなかなか難しいのだけれど、Google検索で見つけたこれをここに参考までに掲載:self awareness =「自分の感情の状態を正しく把握でき、同時にそれが他人にどのような影響を与えているかを十分認識できること」(日本語訳の出所はここ)単に「自己認識すること」だと伝わらないニュアンスがここにはしっかり書かれているが個人的には好き。  
その本を購入した時に登録していたメルマガの最新版が色々と考えさせられる内容だった。というかNPO・インパクトセクターと言われる業界に入って6年経つなかで自分が思うようになってきたことと近かったので備忘&シェア目的にここに紹介してみようかな、と。

そのメールのタイトルは「The danger of meaningful work」。やりがいを感じることのできるシゴトの危険、とでもいうトーンだろうか。

やりがい至上主義の流れ 

まず、メールの前半で印象的なのは(彼女の)現状認識。
How fulfilled we feel at work is becoming more and more central to how we measure our lives。(私たちがシゴトでどのくらい満たされた気持ちになっているかどうかは今まで以上に自分たちの人生に対する評価に大きな影響を与えるようになっている)
確かにこの数年「finding meaning to one's work(自分のシゴトの意味や存在意義を見出す)」という動きが「流行っている」・・・・ような、とりあえずそんなフレーズを聴くことが多いのがここ数年の私の個人的な感覚でもある。

Dr. Eurichが紹介していた「feeling a sense of significance in what we do ▶︎ positive and enriching life」という学術研究結果が本当だとしたら、おそらくそれを体感することができている幸運な人たちが「これ(やりがいがあるシゴトをしている日々)いいよ!自分は幸せだ!」というメッセージを多く発信していてもおかしくないし、メディアで取り上げられるストーリーなどをみていても社会として「meaningful workに一生懸命向き合っている人たちを応援しているよ」みたいな空気はあるような気がする。

一時期「ikigai」を要因分析したこの図が英語圏でバズっていたり(日本人の自分でさえここまで精密に分析してロジカルに整理したことがなかったのでなかなか興味深い記事ではあった)、新しい家族ができたりして他のsource of meaningやfeeling a sense of significanceを得ている友人たちがそれに加えてシゴトを通じた自己の存在意義の模索を続けているのを見たり、CTIで学んだコーチとして意識しなくてはいけない重要項目の一つとしてクライアントのfulfillmentの源泉の深掘りがでてきたり、・・・「シゴトでの満たされ度」「やりがい」は重要だとされている気配は色々なところに漂っている。

そんな流れを踏まえてDr. Eurichが今回のメルマガで釘を刺していたこと、それは「happiness(幸せ)とmeaning(意味合い.... やりがいを感じる際の背景にあるもの)は別物だよ」というもので、個人的にもそれはとても大事なポイントだと思うのだ。

やりがいと幸せがずれる時

彼女は彼女自身の体験を元に、このhappinessとmeaningが必ずしも一致するものではない、という持論を展開。そのメッセージを自分が勝手に図で表現すると「AではなくBをみてごらん、必ずしも黄色の中にいることが赤いhappiness三角の中にいるとは限らないのだよ」という感じ。

  • 青い四角は何らかのシゴトを持っている人たち全て
  • 黄色の円はそれらのシゴトにやりがいを感じている人たち
  • 赤の三角は幸せを感じている人たち
ちなみに個人的にはこの丸のサイズは青い箱いっぱいに広がってもいいのかもと思っているものの、最終的には個人の捉え方の問題でもあるので、便宜上こういう風に表現。参考 お金以外の働く意味を考える本「なぜ働くのか」) 

Dr. Eurichがメルマガので強調していたのは、この図Bにおける「黄色の円の中but not within赤の三角という部分の存在・そのリスク」だった。

やりがいを感じるからこそ、自分のある一部が満たされた気持ちになるからこそ、自分がそこに立っている(または走り続けている)ことを忘れがちになる。

でも自分という人間のケアは自分以外の何者もできないし、してくれない
"..must fight to cultivate balance and set boundaries so we can deploy our talents in a sustainable and sane manner" - Dr. Eurich 
「闘う」または「負けないように努力する」という意味のあるfightという動詞が使われている。これ、「やりがいワールド」の中にいる自分だからよく分かるけれど、すごく適切な動詞だと思う。 
なぜなら、やりがいを感じ続けられるというのは、結構特殊で、世間一般的にとても恵まれた状況であると共に、ある種の覚醒状態にいるようなものだと個人的に思ったりするから。 
自分の中の湧き上がる気持ちやハイな気持ち、他者からの期待や感謝という形のある種のクスリ漬けになっている自分に冷静に向き合うには結構な真剣さが求められる。 
シゴトが楽しいと、ついついあと30分、あと1時間とPCに向き合っている時間を延長してしまいがちな自分。それを早めに切り上げるというのは結構苦しいことだったりする。自分の中で二人の人間がまさに戦っている感じ。
それでも彼女が「 so we can deploy our talents in a sustainable and sane manner」と書いているように、短期的にちょっと違和感を感じる行動を取らざるを得なくなっても(もっとできるはずのシゴトを早めに切り上げる、頼まれごとにNOという、チャンスをスルーする)長期的には重要な・懸命な選択であるということは結構ある。

自分たちのベストな状態で他者に、社会に貢献し続けるためには、または自分の周囲の大切な人たちに犠牲を強いることのないようにするには、そして自分がサステイナブルに、分別のある人間として人生の長期マラソンを走るには、本当に大切なこと。

自分は今幸せなのだろうか、三角の中に今自分はいるのだろうか、と問いかけること。

ちなみに日本語でたまに聞くことのある「やりがい搾取」というフレーズ。英語でそれに相当するのがあるのかは知らないけれど、搾取されてしまう側にも立ち止まって考えてみると選択肢はあるはずで、搾取する側・組織だけを非難するのは間違っている(と私は思っている)

上に書いてあるようにboundary(境界線)を引くのは自分。

今日この瞬間の私はありがたいことに赤い三角の中に立っている。
でも、いつ何が起きてそのバランスが変わるかどうかもわからない。

だから今自分ができることは、これからの自分のために、定期的に自分の立ち位置を振り返ること、fightする必要性が出てきたときに難しくてもその努力をすること、そういうことを意識しておくということなのかな、と思ったりした。

そんなことを彼女のメルマガから考えさせられた。

最近読んだLinkedinのIt's Later Than You Thinkも似たようなことを考えさせられる内容だった。私たちに与えられた時間はきっと私たちが思っているよりも短い。だからこそmeaningは追求したいけれどhappinessもおろそかにしたくない、そのためには意志をもって自分の状態を振り返り必要な行動を取る必要がある、そんなことを思ったりする。

関連エントリー